鳴門の塩業史

鳴門の塩業探訪記

塩(塩化ナトリウム)は「塩梅(あんばい)」のことばでも明らかなように調味料の基本となるもので、その他つけ物、しょうゆ、みそなどをつくり、防腐剤、医薬品、科学、各種産業方面において使われ、人間生活にとって欠くことのできないものであり、さらに民俗において塩は清浄なものと考えられ死のけがれ祓いや、今なお相撲の土俵では塩をまき、水商売の門口では盛り塩をします、これらの事から塩は人間生活にとって、切っても切れない関係にあることがわかります。

1:塩業の町、鳴門の歴史 渦潮で有名な鳴門は、日本書紀に「粟の門」として登場し、古くから阿波国への門戸として知られており、

また市内には原始から古代にかけて文化の曙を告げる著名な遺跡も多く出土しています。

西部の大麻町からは旧石器が発見され、縄文時代の生活の跡を伝える森崎貝塚や、弥生時代の農耕生活を物語る木製の鍬石包丁、更に銅鐸なども出土していたり、萩原古墳群、宝憧寺古墳群など県下有数の古墳密集地帯となっています。

東部の鳴門海峡方面の島々や岬角にも小古墳の分布がみられ、とくに瀬戸町の日出(ひうで)湾岸に臨む古代製塩遺跡は五世紀ごろの土器製塩遺跡と確認されています。ここでの塩作りは土器の壺に海水を入れ、焚きつめて塩にする素朴な方法だったようで、この付近一帯からは製塩に用いた土器などが多数出土し、竪穴式住居跡もみつかっています。これらの海人の集落では、古くから恵まれた立地条件を生かして塩の生産が行われていました。

鳴門の中心地の撫養は、古代は「牟屋」と書かれ、その語源は港に船をつなぐ「もやい」から転訛したとするように港町から発展してきたようで、大化の改新(7世紀)にともなう官制で板野郡に属し、都と結ぶ官道が淡路から鳴門海峡を渡って撫養に上陸し、撫養街道を西へ進んで大麻町の石園(いその)、板野町の郡頭(こうず)を経て阿波や讃岐の国府に通じ、阿波から都への貢納物も、この道を通って撫養港から積み出されました。

奈良の平城京宮跡から出土した木簡の一つに、牟屋(撫養)の海人(あま)が若海藻(わかめ)を壱籠貢進したことが記してあり、ワカメが奈良時代すでにこの地の徳産であったことがわかります。 都が平安京に還って政治のひきしめが行われるなかで、平安中期に編纂された延喜式(延長五年=九二七完成)の神名帳に板東の大麻比古神社が大社とし登録されています。

板野郡からは他に小社として鹿江比売(かえひめ)神社、宇志比古(うしひこ)神社、岡上(おかうえ)神社があり、岡上神社(板野町)を除く二社は、異説もあるが、板東に集中していて、祭神などから考え合わせると、この地が阿波忌部氏の拠点の一つで、中央とのつながりも深かったと考えられます。

撫養港の対岸土佐泊は、承平五年(九三五)歌人紀貫之が土佐の国司の任満ちて都へ帰る途中、鳴門近海に出没する海賊をさけて寄港した所で、その折土佐日記に詠み込んだ彼の歌碑が潮明寺(ちょうめいじ)の境内にある。また、長元二年(一〇二九)阿波の国司に再任された藤原基房が下向の折に詠んだ「木津神(こつがみ)の浦にとしへてよる浪も同じ所にかへるなりけり」の歌碑が南浜の弁財天の境内にあり、このあたりから木津の一帯は木津神浦とよばれ、今から四、五百年前まで浪が打ち寄せう景勝の地であったようです。

 

鳴門には、源平合戦や承久の乱に関わる史跡もあります。

土佐泊の潮明寺近くの丘にある小宰相局(こざいしょうのつぼね)の墓には寿永三年(一一八四)平通盛のあとを慕った恋女房の悲話がこめられ、また、承久の乱(一二二一年)で土佐に還られた後阿波の行在所で亡くなった土御門上皇の御火葬塚が大麻町大谷にあります。

細川・三好の勢力が中央で権勢をふるった室町期には、この地が阿波屋形と京畿を結ぶ門戸となり、足利十代将軍義植(よしたね)、十四代将軍義栄(よしひで)も阿波を頼って撫養で没した。当時、土佐泊には細川・三好氏の水軍を支えた森志摩守が居城し、水軍の要港でもありました。

文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」には、土佐泊や対岸の牟屋(撫養)の船が藍や小麦などを積んで兵庫北関(神戸)に入港したことが記されてます。 天正十三年(一五八五)の四国征伐に羽柴秀長率いる豊臣軍が撫養に上陸し、長宗我部軍の東条関之兵衛が守備する木津城を落し入れた。その後蜂須賀家政が入国し、軍事交通上の要地である撫養城を阿波九城の一つとし、益田内膳を城代として兵三百を配して守らせた。

慶長四年(一五九九)内膳の子益田大膳は、藩主の命により播州から馬居・大谷両氏を招いて桑島に塩田を開発させ、以来製塩はこの地の重要な産業となりました。

先述の”阿波塩”の積荷記録があるので、これも藍と同じく藩祖の業績に結びつけた起源説の感もあるが、藩が塩田開発を積極的に保護奨励したことは間違いなく、斉田・黒崎など塩方十二ケ村で造られた塩は”斉田塩”とよばれ、全国市場に積み出されたようです。

撫養港は塩だけでなく藍作肥料の干鰯なども扱う廻船問屋が活躍し四国遍路もこの港を利用、阿波の門戸として繁盛し明治維新を迎え、現在の鳴門市は、昭和二十二年に撫養町を中心に生まれ、相つぐ町村合併によって広域化し、塩業も近代化され町の様子も大きく変わった。昭和六十年に待望の鳴門大橋が開通し、明石大橋の完成し京阪神と直結し、鳴門の歴史も大きな転換期を迎えます。

   

2:塩業の町、鳴門の風土 鳴門と言えば、すぐ渦潮の巻き立つ鳴門海峡が目に浮かびます。

この海峡の上に、昭和六十年渦潮をまたいで全長1,629㍍の大鳴門橋が開通し、四国と阪神間の距離が縮まりました。

徳島県の東北端に位置する鳴門市の北半分は、起状の小さいなだらかな山地(阿賛山脈)。西の大麻山(標高541㍍)から東方の鳴門海峡へ向かってしだいに低くなり、その東端・大毛島の孫崎と淡路島門崎の間、約1,3㌖の狭い海峡で、大潮時には時速二十㌖もの潮流が轟音をとどろかせながら、大小さまざまな渦を巻き起こす。潮の干潮によって、瀬戸内海と紀伊水道の水位に2㍍もの落差ができ来ている為です。最も大きな渦は直径20㍍にも達し、本当に壮観で、干潮の差が一番大きい旧三月の節供頃が観潮に最適です。

鳴門公園(昭和二十五年瀬戸内海国立公園に編入)の展望台からは、この天下一の渦潮と、世界に誇る大鳴門橋の偉容が一望でき、架橋記念館”エディ”では架橋関係の資料や人口的に再現した渦を見せてくれます。また、豪快な渦が真近に見える観潮船人気です。 大毛島を南北に貫く本四連絡道路が小鳴門の高架橋を渡って鳴門市内へ入ると、競艇場の西方に鳴門塩業会社の煙突が見えます。

 

鳴門は今も国内塩の七分の一にあたる21万トン余を産出し、”斉田塩田”の伝統を守っています。

かつてはこのあたり撫養町黒崎・桑島を中心に斉田・南浜から瀬戸町明神・鳴門町高島三ツ石にかけて「塩方十二ヶ村」とよばれ総面積三百三十㌶に及ぶ広大な塩田が広がっていました。瀬戸内海沿岸各地に分布した十州塩田の一つとして全国に知られていました。 これらの塩田地帯は波静かな砂浜で、潮の干潮の差が大きいこと、気温に比較して降水量が少ない瀬戸内気候に属し、ことに冬季はよく乾燥して晴天の日が続く。このような条件に恵まれて藩政期から盛んであった入浜式製塩が、戦後昭和二十七年(一九五二)ごろから枝条架・流下式塩田法に変わり、塩田の様子が一変、更にイオン交換膜法が導入されて、昭和四十七年塩田は全廃された。

 

現在塩田跡は新しい市街地を形成し、あるいは運動公園になり、大学のキャンパスに生まれ変わるなかで、高島の福永家屋敷が入浜式塩田と製塩施設を残す我が国唯一の浜屋敷として国指定の重文となり、昔の面影を伝えている。

また、天気稼業の浜子たちの収入を補う内職から”足袋づくり”が始まった。今をときめく製薬業者とともに、製塩業に間接的につながる鳴門の代表的な産業となっています。

   

鳴門市の南部は、西方から旧吉野川が大きく曲流蛇行し、豊な田園地帯を大きく育みながら東へ流れて紀伊水道に注ぐ。

河口近くで北流する撫養川の文明橋を東へ渡ると阿波九城の一つだった岡崎城跡のある妙見山(標高64㍍)につきあたります。城跡には妙見神社が祀られ、また郷土が生んだ世界的な人類学者で、考古学者鳥居竜蔵博士を顕彰する天守閣を模した鳥居記念館跡がありました。

この山の北麓の岡崎海岸は、夏、海水浴客でにぎわい、東方紀伊水道に面した里浦は古くから海人(あま)の里で伝説も多い。里の”あま塚”は日本書紀に見える「蜑男狭磯(おまのおさし)」の墓だといい、あるいふは枕草子で有名な清少納言の墓だともいわれています。男狭磯が住んでいたという蜑屋敷地に十二神社があり、境内には「蜑の井戸」やその顕彰碑があります。そしてこの社の西方には万葉歌人の柿本人麻呂を祀る人丸神社もあります。

また、この岡崎から里浦海岸にかけて、元禄のころから南東風(まぜ)にのせて大凧をあげ技を競う豪快な風習などもあり、なかでも直径25㍍もあった”ワンワン”という丸凧は二百人がかりで上げたと今も語られています。

撫養から西方へのびる阿賛山脈の南麓に沿った撫養街道は随所に古い街並みを残し、由緒ある社寺も点在し、撫養町木津には駅路寺の長谷寺や金毘羅神社があり、大津町大代には文楽人形師の大江巳之助がいます。

大谷焼で有名な大麻町大谷には巨大な瓶(かめ)を焼く日本一の登り窯があり、土御門上皇火葬場のある阿波神社も近く、更に大麻町板東へ足をのばすと阿波一宮大麻比古神社や四国霊場一番札所霊山寺、二番札所の極楽寺などがあります。

また第一次大戦の折、捕虜となって収容されたドイツ兵と地元民との暖かい交流を記念するドイツ館やドイツ村公園も板東にあります。

 

豪快な渦潮と史跡に恵まれた塩の町鳴門。 民俗文化財集-第十集-鳴門の塩 発行:徳島県郷土文化会館© 編集:徳島県郷土文化会館民俗文化財集編集委員会 発行:平成元年十月一日発行より抜粋。

 
 

日本の塩の歴史

国の始めについて書かれている「古事記」に出てくるシオツチノオキナ(塩土老翁)が、製塩の創始者と言われています。

全国に点在する塩釜神社は113社あり、シオツチノオキナは宮城県塩釜市にある塩竈神社に祭られています。

実際、古代の人は海水を直接煮詰める方法を取っていたと考えられていますが、「万葉集」には、「藻塩焼く」と記録されており、海藻を天日乾燥させ、何度も海水をかけることにより塩の結晶を作っていたと考えられます。塩竈神社の境外末社・御釜神社では、毎年「藻塩焼神事」により、藻塩を作る一連の工程が3日間かけて再現されています。

 

 

奈良時代には既に「塩浜」と言われる通り、浜を利用した塩づくりが行なわれていたようです。

安土、桃山時代になると瀬戸内海のほか、各地で塩田による製塩が行なわれていました。当時は、「揚げ浜式塩田」といい、海水を浜に撒き、天日で乾燥させることを繰り返して行い、塩の結晶がたくさんついた砂を集め濃い塩水をとることによりし塩を作る方法が取られました。

その後、塩作りの効率をよくするため、土木技術の工夫がなされ、満潮時の海水を石垣等で囲われた塩田に引き込み、門を閉じ、中の海水含んだ砂を天日で完全に乾燥させる方法に進化しました。

塩分が付着した砂をかき集める作業は相変わらず重労働でしたが、この砂を「沼井(ぬい)」と言われる場所に集め、海水を注ぎ、濃い塩水(かん水)を取る方法に変わりました。この方法を「入り浜式塩田」と言い、約300年、昭和30年代まで続きました。特に瀬戸内海沿岸地方では、塩の生産に適した気候と地形であったため、大規模な入り浜式の塩田が多く見られました。

昭和30年代には、「流下式・枝条架塩田法」に変わりました。これは、粘土流下盤といわれる傾斜を付けた流下盤を海水を流し(主には、天日の力で濃縮)、また枝条架に海水を流して濃縮する方法です。入り浜式塩田時代の過酷な労働から解放され、塩の収穫量も増えました。このように、海に面する日本では伝統的な塩つくりが行なわれていましたが、昭和46年(1971年)、塩業近代化臨時措置法が発令され、

1)民間企業が日本の海水から塩を製造してはならない 

2)民間企業が独自に海外から塩を輸入してはならない 

となりました。つまり、この法律によって、日本の塩田が全廃(伊勢神宮の御塩浜は例外)させられました。

国は塩田の代わりに、「イオン交換膜法」と言う日本独自の「イオン交換膜電気透析法」の原理で、海水中からナトリウムイオンと塩化物イオンなどを集めて濃縮する方法を採用すると同時に、オーストラリア、メキシコの天日塩を大量に輸入することで対応しました。このイオン交換膜法の塩は、純度の高い塩化ナトリウムを抽出するには優れた方法でした。

しかし、各地で塩田復活の消費者運動が起こりました。塩田の復活は認められませんでしたが、専売公社が輸入する海外の天日塩を原料に、再製加工する塩は認められました。また、伊豆大島では海水から塩の製造が試験的に認められました。

また、海外からの天日塩等を、試験的に独自の輸入販売が認められました。この明治38年がら92年間続いた塩専売法も、平成9年(1997年)3月に廃止されました。現在では、国内で海水から自由に塩を作ったり、海外の天日塩、岩塩を自由に輸入販売することができるようになりました。

 

鳴門の御赤飯

お赤飯にかけるものといえば、普通はごま塩と相場が決まっています。

しかし徳島県北部の鳴門地方では、お赤飯に「ごま砂糖」をかけるのがスタンダード。結婚式の披露宴の引き出物やお祝い事に配られるお赤飯、学校の給食のお赤飯にも、必ずゴマ砂糖(すった白ゴマと砂糖を混ぜたもの)が付いてきます。そして、驚くほどたくさん振りかけます。

徳島市など、県内他地域では基本的にお赤飯には「ごま塩」。では、なぜ鳴門だけごま砂糖なのでしょうか。

これは、鳴門地方の開発の歴史と関係があるようです。鳴門は江戸時代、全国有数の塩田地帯として開発が進みました。撫養塩田で生産される塩は「斎田塩」と呼ばれ、兵庫県の赤穂の塩とともに名声を博しました。大正時代には鳴門の塩の生産量は全国の一割を占めるに至りましたが、戦後になると塩田整理が進み、昭和47年、ついに塩田は廃止されました。 このように鳴門は塩田地帯であったため、塩はいくらでも手に入りました。

一方、砂糖は貴重品として大切にされていました。そのため、祝い事に赤飯を食べる際には、ありふれた塩ではなく、貴重な砂糖を使ったのだというのです。

そのほか、塩田の作業は重労働だったので、砂糖をかけて甘くして食べたのではないか、あるいは江戸時代末に、金持ちの商人などが、祝い事の赤飯に当時貴重だった砂糖をかけたのがきっかけではないかといった説もあります。

ごま砂糖のお赤飯は、普通の家庭で作られるほか、鳴門市内の和菓子店などでも販売されています。もちろん、ごま砂糖の小袋付き。ただし、鳴門でも地域や家によっては「ごま塩文化」の所もあるので、店では普通のごま塩のお赤飯も用意しています。

お赤飯と砂糖という取り合わせはちょっと違和感を覚えますが、実際に食べてみると甘い和菓子のような感じで、ふだん口にするお赤飯とはまた違った味わいを楽しむことができます。鳴門をはじめ徳島県ではちらし寿司にも甘い金時豆を入れます。つくづく甘いもの好きの土地柄のようです。

 

鳴門の塩業

鳴門の塩づくりの歴史は長く、その始まりは今から約400年前の慶長4年といわれています。

潮の流れが早く塩分濃度も高い清澄な海水に恵まれた鳴門は昔から塩づくりに適した環境であり、50年ほど前まで市内には広大な塩田風景が広がっていました。

その塩田も今では製塩技術の進歩によって姿を消してしまいましたが、塩づくりの伝統は現在も鳴門塩業によって受け継がれています。

製塩方法は変わっても、従業員一人一人の塩づくりに対する真摯な姿勢、伝統を守っていきたいという想いは、今も昔も変わりなく受け継がれています。

   

=参考資料=
● 鳴門の塩 ● 写真集鳴門塩田史
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